2008年05月17日

第2回【分析】いじめ問題(1)



前回、社会全体がいじめ構造であるから、
子供社会にいじめが生じるのは、ごく、当然のことなのだ。
そのようなお話をさせていただきました。

先日、札幌で非正規労働者によるデモ行進が行われたのですが、
デモ行進の参加者たちが、「競争はしないぞ!」と叫びながら歩いていたんですね。

過当競争化する社会に対する反発の声なのでしょう。
気持ちはよく理解できますし、
本来、競争しなくても生き行ける経済体制が実現するのが望ましいと思います。

しかしながら、現実の上では、我々は新自由主義社会の上にあるんです。
新自由主義と言いますのは、政府はできるだけ干渉せず、
経済を市場原理にまかせるという仕組みです。

この新自由主義の是非を論ずるということも大事ですが、
新自由主義うんぬんと論じていて、メシが食えるわけではない。
そういうことを論じてメシが食えるのは、学者や評論家だけです。
労働者が、そういうことばかり、やっていても仕方ないんですね。

「競争はしないぞ」と言うのは、気持ちは理解できますが、
現実に競争社会の中にある以上、競争の拒否は、即、自己の滅亡を意味します。
生き残るためには、競争しなければならないのです。

そもそも、新自由主義以前に、人間社会そのものが競争社会なのです。
なぜならば、人間もまた動物だからです。
競争しない動物は、めったにおりません。
競争したくないのならば、これはもう、植物になるしかない。

人間はDNAの中に、競争したいという感情がプログラミングされております。
ですから、「ゲーム」というものがあるんですね。
みなさんも、ゲームが好きですよね。

ボタンを押してピコピコやるもののみではなく、
囲碁や将棋やスポーツだって、ゲームです。

徹底している人は、
他人と対戦する形式のゲームはとことん嫌うのかも知れませんが、
たいていの人は、他人に勝てば、うれしいなと感じるはずです。
そして、勝つために、腕をみがくでしょう。

「プロ」「名人」と呼ばれる人たちは、
みな、結果的にそうやって強くなったんです。

人間の本質が競争好きであることを、私は肯定しているわけではありません。
肯定とか、否定とかではないのですね。
それが現実だということです。
それが嫌ならば、神になって、世の中をつくりかえるしかない。

この世の中を生き延びるには、人間が本来、競争好きである。
だから、競争社会は当然であるという視点に立つことです。
そして、生き残るために「自分も戦う」と言う決意を固めることです。

そこで、いじめ問題ですが、いじめというのはなぜ起こるか。
それは、子供のDNAの中にも、競争本能が植え込まれているからです。

たとえば、クラスで一番、かわいい女の子がいます。
誰が一番、かわいいかというのは、人によって評価が異なる、
というのは優等生的な回答でありまして、
実際、クラスの男子に、「このクラスで一番かわいい女の子を指差して」
と言いますと、だいたい、おんなじ女の子に指先が集中するものです。

そのクラスの男子が18名だとしたら、18名で、
その一人の女の子を奪い合う、ということになりますね。
これは大変に、熾烈(しれつ)な競争です。
18倍の関門ですから。

できれば、これを17倍、16倍と、ハードルを低くしたい。
そのためには、間引く必要があるんですね。
密生している農作物を適当に抜き取ることを「間引く」と言います。
クラスにおける間引きが、いじめなんです。

いじめの目的は、その子を抹殺することです。
別に、本当に死んでもらう必要はないわけで、
学校に出て来なくなったり、もし、出て来たとしても、
戦闘意欲を失ってもらえれば、それで良いのです。

お気づきになったでしょうか。
先にお話した、デモ行進で、非正規労働者たちが、
「競争はしないぞ」と叫びながら歩いていた件。

「競争はしないぞ」と決意を固めたということを、喜んでいる人たちがいる。
つまり、現在の正規雇用者です。
非正規雇用者が競争を放棄してくれたら、
自分たちの足元が脅かされる危険性が無いわけですから。
「おまえの椅子は奪わない」と、彼らは言っているわけですからね。

大人社会にもいじめがあります。
間引くために、さまざまないじめを行います。
アルバイトやパート、契約社員のまま正社員にしない、というのもいじめです。
このいじめによって、当人の気持ちが萎えてくれるのを待っているのです。
当人の気持ちが萎えて、萎えて、
「競争はしない」と言う気持ちになってくれたら、彼らの勝ちです。

彼らがいちばん嫌なのは、競争し続けられることです。
アルバイトが努力して正社員になり、
そのせいで、正社員であった自分がクビが斬られることを恐れています。

あなたがもし、まだ子供で、いじめられているとしたならば、
クラスで一番、かわいい女の子にアタックしてみてください。
そして、もし、女の子と付き合うことができたら、それでいじめは終わります。
なぜならば、勝負がついたからです。

もし、その子にふられたとして、ふられたことがクラスの中で広まってしまった。
男連中は、みなあなたを馬鹿にするでしょう。
ですが、あなたはこう思っていれば良いのです。
「じゃあ、おまえはあの子に告白する勇気があるのか」と。

この人間社会の愚かなところは、勝負に勝った人間に対しては、
みんなが「ははあ」とひまざづくところです。
これは、猿の時代から、そうなんです。

お金を持っている人間。
ものすごい美人とつきあっている人間に対しては、
世の中は、敬意の目で見るものなんですよ。

ですから、いじめから逃れたいと思うならば、これは戦うしかないんです。
競争するしかない。
勝負するしかないんです。

ケンカして、腕づくで勝つというよりも、
スポーツで勝つとか、かわいい子と付き合うとか、そういう勝負です。

勉強で秀でることは、あまり、いじめ解決には結びつかないかも知れません。
ですが、ある程度、勉強はできたほうがいいですよ。
勉強があまりにもできなくて、いじられているケースもあるからです。

ケンカして、腕づくで勝つ必要性のある場合もありますよ。
男子の場合は。

とにかく、いじめ問題を解決するには、
自分のほうが「優性」であることを、証明することなんです。

「優性」「劣性」、嫌な言葉ですけど、
人間社会を生き抜くための大切なキーワードです。

優性だからいじめられるというケースもあります。
本人が優性であるということを、気づく前に、いじめて潰してしまうんです。

たとえば、クラスで一番の美人。
こういう子が、女の子の間で、いじめられることが良くあります。

美人に「あなたはいじめを受けた経験がありますか」と質問しますと、
八割、九割の人間が「ある」と答えるんです。

美人にクラスの全男子の関心が集中するから、
女子連中としては、これを排除したいんですね。

でも、この子が、クラスで一番、いい男と付き合うようになると、
それでいじめが、ピタッと終わることがあります。
勝負がついたからです。

ですから、先天的な「優性」を保持しているという段階では、まだダメなんです。
優性としての結果を出さねばならない。
私は優れているのだという証明をしなければならない。
そうならないと、いじめが終わらないんです。

最近、よく耳にする言葉に「パワハラ」というものがあります。
権力をかさにきた上司が、部下に対し、暴言を吐いたり、嫌がらせをする行為です。
どの職場にもありますよね。

パワハラを受け続けた者が、うつ病になって、休職するケースも多いようです。
ですが、うつ病になって休職した時点で、負けですよね。
だって、それは上司の狙い通りですから。

上司も、恐いんですよ。
部下に追い抜かれるのが。
上司なんだから、堂々としていれば良いのにと思うかも知れませんが、
そう割り切れるほど、人間的に優れている上司は少ないのです。

社長であっても、そういう心理はなくならないんですよ。
自分の雇っている社員よりも、自分のほうが優性でありたい。
優性であることを証明したいという気持ちでありますから。
馬鹿にされたくない。
社長なのに、なんであんなに馬鹿なんだと思われたくない。
ですから、徹底的に社員をいびるんです。

パワハラは、大人社会のいじめの典型です。
パワハラから逃れる方法は、医者にうつ病と診断してもらって、
会社を休むことではありません。
そんなものは、一時の気休めに過ぎない。

徹底的に、上司と戦うことです。
社長と戦うことです。

戦うというのは、罵倒し合う、ということではなく、自分の優性を証明することです。
仕事で結果を出すことです。

仕事で結果を出すことで、余計に妬まれて、いじめられることもあるでしょう。
この時、いじめて来る彼らの心境は、
「仕事ばかりが人間の優劣ではない。仕事ではお前に負けているが、
 全体的な人間の優性という面では、俺のほうが勝っている」というものです。

ですから、こっちとしては、その思いをくじくような、何かをしなければならない。
自分のほうが、トータル的に勝っているという証明をしなければならないんです。

人間の優性を競い合うのが社会の現実であったとしても、
そこに積極的に加わって行く必要性など無いのではないか、
とお考えの人もいらっしゃるでしょう。

仕事で成果を出しているとか、いい女と付き合っているとか、
そういうことで人間の価値が決まるなどと考えてはならない。
という考え方ですね。

自分がそういう価値観を持っていることや、
多くの人がそういう価値観を共有することは、とても大切です。
ですが、理想論では、今現在起こっている現実の問題に対応できません。

道端でナイフを持った暴漢に遭遇した。
その相手に「刃物で人を傷つけてはいけないよ」などという言葉は通用しません。
逃げたとしても、後ろから背中を刺される。
戦うしか無いんです。

世の中は戦場です。
我々は戦場に生きていることを理解する必要があるんです。

また、お金を持っている人が、「お金がすべてではないよ」とか、
美人が「顔がすべてはないよ」と言うのは良いのです。

でも、お金を持っていない人が、「お金がすべてではないよ」とか、
ブサイクが「顔がすべてはないよ」と言っても、世間の人は受け容れてくれません。

ですから、私がこのような話をして、果たして説得力があるか否かと言えば、
ハッキリとNO!なのでしょうが、これは私の趣味なのであります。

さて、子供のいじめ問題に戻ります。

まず、一番、重要な問題として、
教員の指導力や、クラスの自浄能力で、いじめが解決できると考えてはなりません。

これは、パワハラ問題を会社の経営者の指導力、
職場の自浄能力で解決できないのと同じです。

自分の問題は自分で解決しなければならない。
他人に頼ろうとすると、必ず、裏切られます。

いじめ問題は、原則的には自分の力で解決する。
どう解決したら良いか。
それは、「間引かれるのは、俺ではなく、お前だ」と言う態度で挑むことです。
自分の優性を大いにアピールして、結果を出すことです。

男ならば、腕ずくでケンカする必要性がある場合もあります。
ですから、いじめられている子供は、空手を習ったほうがいいです。
空手は、闘争心を強化する訓練にもなります。
組手をやる時は、無心ではいけません。
闘争心むきだしでやらねばなりません。

さて、教員の指導力に期待するなと言いましたが、
教員を上手に利用するのも、自分の優性のアピールになります。

教員とか、法律とか、警察というのは、つまり権力です。
権力というものは、利用するためにあるんです。
権力を上手に利用できるかどうかというところに、人間力が表れます。
才能が問われるんです。

自分がいじめられている時、ここぞという時に、
教員に連絡したり、警察に通報する。
ピンポイントで教員や警察が到着して、いじめっ子がおとがめを受ける。

みんなは、あなたを「あなどれない」と思うでしょう。
「あなどれない」「恐い」「隅に置けない」と思われることが、大事です。

時には、脅すことも必要です。

「お前、これ以上、私にちょっかい出したら、
 私は一生、おまえにつきまとってやる。
 おまえが就職しようとする時、その会社に乗り込んで、
 おまえがいじめっ子だったことを話してやる。
 おまえが結婚しようとする時、その相手に、
 おまえがいじめっ子だったことを話してやる。
 あることないこと、ぜんぶ、それらしく話してやる。
 私の人生をかけて、おまえの人生を崩壊させてやる。
 てめえ、みくびってんじゃねーぞ。」

くらいの脅しは、時として必要です。
こういう脅しの使える人間は、一目、置かれます。

教員であれ、警察であれ、脅しであれ、使えるものは、何でも使う。
使いこなして勝負する。
こういう人間は「あなどれない」「恐ろしい」と思われます。

学校で、わざと顔を殴らせて、その場で110番通報する。
警察が到着します。
その時、大げさに泣き叫ぶ。
学校じゅうが大騒ぎです。

こいつをいじめたら、とてつもなくめんどうくさいことになると思わせるんです。
posted by ぽよよ犬 at 23:58| 分析 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月12日

第1回【分析】人間の性質



第1回めの今日は、人間の性質について分析したいと思います。

中国の古典に『荀子』と言う本があります。
『荀子』は「性悪説」を説いた儒家の書として有名です。
対して、同じく儒家の書である『孟子』は、「性善説」の書とされています。

人間の性質が、本来、善であるという主張が性善説。
人間の性質が、本来、悪であるという主張が性悪説です。

仏教の考え方に照らすならば、人間の性は、本来、善でも悪でもない、
ということになるのでしょうが、
形而上学的思考はさておき、現実の上から捉えるならば、
どうやら、性悪説と捉えたほうが正解ではないかと私は考えるんです。

なぜならば、人間というものは、これはもともと動物です。
サルの進化したのが人間です。
動物社会で考えてみるならば、弱肉強食です。
強い者が弱い者を弾き飛ばし、食いつないで行きます。

サルの社会でも、ボス猿が、すべてのメス猿を独占します。
エサも、ボス猿がもっとも多く持って行く権利があります。

弱いものを保護しよう。
エサを分かち合おうという考え方も、動物の世界に無いわけではありません。
ですが、あくまでも、自分が生きる事が第一。
余力があれば、仲間を助けるという考え方です。

実は、人間社会は、この動物社会と、本質的に何も変っていないのではないか。
そう思うのです。
そのような視点から、世の中をもう一度、見つめなおしていった時、
ああなるほどと、腹に収まるところがあるのではないでしょうか。

損ばかりして生きている人。
得ばかりして生きている人。
この両者に差があるとしたら、一体、何か。

損ばかりして生きている人は、性善説に立っている。
得ばかりして生きている人は、性悪説に立っているのではないかと思います。

性善説に立っている人は、つまり、騙されやすいのです。
性悪説に立っている人は、騙されにくいのです。

騙されやすいか、騙されにくいかというのは、人生において、大きな差です。

例えば、平成20年現在で、
最もマスコミで取り上げられているのは、年金問題です。

昔から我々国民は、公務員は悪い事などしないと思い込んで来ました。
「公務員性善説」ですね。
ところが、年金をあずかる社会保険庁は、天下り先を確保するため、
採算のとれぬような施設を、次々と造りました。

また、年金をちょろまかして、懐に入れてしまう職員も、多くおりました。

これが、性善説のツケなのです。

人を騙すよりも、騙されたほうが良いという人がいます。
ですが、騙されるのも、やはり遠慮したいですよね。

この社会において、少しでも得をするにはどうしたら良いか。
それは、少なくとも、人に騙されなくなることです。

人に騙されなくなるには、どうすれば良いでしょうか。
それは、性悪説に立って、人の心の裏側を読むことです。

人の心の裏側を読めるようになれば、
人に騙されぬようになるばかりではなく、
人生における交渉事を、有利に進めることが出来るようになるのです。

性悪説に立って、この世の中を見つめるならば、
この世の中は「蹴落とし社会」であることが、ありありとわかるはずです。

芥川龍之介に『蜘蛛の糸』という小説があります。
主人公は、蜘蛛の糸にしがみつき、下からよじ登って来る人々を蹴落とします。
このあさましい姿は、
実は、この世の中のすべての人間を映し出しているのではないでしょうか。

この社会は、十個の椅子を、十人で分かち合っている社会ではありません。
八個の椅子を、十人で奪い合っているのです。

仮に、物資が豊かになり、十個の椅子が揃ったとしても、
金持ちが大半の椅子を独占し、残り僅かな椅子を、弱者で奪い合う。
それがこの世の中の現実です。

それでは人間らしい社会とは言えないのではないか。
そう思った人々から生まれた思想が、社会主義とか、
共産主義とか言う思想なのですが、
思想自体は立派であっても、
なぜかこの思想を広めようとした人々の中に、腹黒いヤツが多く、
悪いイメージがついてしまって、布教に失敗したのです。

社会主義、共産主義が広まってしまっては、困る人々もいます。
お金や地位を持っている人々です。
彼らは、何としても、社会主義、共産主義を封じ込めねばならない。
そういう人々の抵抗もありました。

ともかく、社会主義、共産主義は布教に失敗し、
この日本国は現在、資本主義、自由競争主義社会です。
この体制は、我々が死ぬまでは維持されるのではないかと思います。

仮に、ここで、イデオロギー運動をやったって、我々の生活は変わらないのです。
もちろん、今の、一部の人間が富を占有する経済体制よりも、
富を平等に分配する経済の仕組みのほうが、
より、人間らしい社会をもたらすと私も考えます。

ですが、それを目指している間に、我々の寿命は終わってしまいます。
ならば、理想は理想として胸に抱きつつも、
とりあえず自分が生き残る事を考えたほうが、重要なのではないかと思うのです。

これは経済体制の問題ばかりではない。
蹴落とし社会というのは、経済ばかりではなく、
あらゆる面において言えるのです。

すなわち、人の性根が汚いのです。

ならば、人の性根をきれいにしようではないか。
そういう取り組みは、宗教家に任せれば良いのです。
普通の人々は、人の性根が汚いということを前提にして、
その中で、どう生きて行けば良いのかを考えるしかないんです。

子供たちの間で、いじめ問題が深刻化しています。
毎年、何人も、何人も、いじめによる自殺が起こっております。
この現状に際しても、大人たちはまったく無策、無力です。
何にもできない。

あたりまえです。
大人の間で、頻繁に、いじめを行っているのですから。
自分も誰かをいじめているのに、子供のいじめを解決などできますか。

会社で部下をいじめ、家庭で妻をいじめる。
そういう男が、子供社会のいじめに対し、何ができるというのでしょうか。

いじめ問題に対し、率先して動かねばならぬ国会議員の先生がた。
彼らも自分の秘書をいじめ、後輩議員をいじめている。

文部科学省の若い職員は、
先輩にいいつけられて、残業代ももらわずに、
「いじめ対策」の文章を真夜中に打つ。

社会全体がいじめなんです。
社会全体がいじめなのに、
子供のいじめ問題だけ、解決できるわけがないのです。

では、子供達はどうすればいいか。
どうすれば救われるか。

それは、大人社会もいじめ社会なのだと知ることです。
担任の先生がいじめ問題に対応できなければ、
担任の先生が校長先生にいじめられる。
そして、校長先生が教育委員会にいじめられる。
そういう社会なのだと知ることです。

ですから、担任の先生も、できればいじめなど、無いことにしたい。

そういうものなのだと知ることです。

そして、子供の社会は大人社会の縮図であると知ることです。

むしろ、子供社会にこそ、人間社会の本質が、ありありと出ているんです。
弱肉強食、蹴落とし社会という本質が。

このいじめ問題については、次回につづきます。

それではまた。
posted by ぽよよ犬 at 01:14| 分析 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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